勧善懲悪のお話では全然なく、『ミスティック・リバー』のような後味の悪い復讐劇とも違う。クリント・イーストウッドの哲学が現れている映画だと思う。
意外な結末には不覚にもホロリ…。
母愛読雑誌、『スクリーン』によれば、イースト・ウッドは共和党支持者であるという。もっともブッシュ親子には投票しなかったそうだが、「あ、なるほどな」と合点がいく。
子ブッシュ前大統領を見ているだけでは見えてこない、「共和党の頑固オヤジ」の姿が映画を通じて見えてくる。そんな映画だと思うのである。
ブッシュ親子というか、とりわけ子ブッシュのせいで、共和党と言うと利己的大国主義保守派みたいに思えるが、『共和党』そのものの根本は違って、もっと素朴なものなのだ。
建国の精神を重んじ、「自分の事は自分でする」権利があると信じている。だから、個人の権利を妨害するような大きな政府は望まず、「国民の権利を守る」為に最低限の規模で政府は存在すれば良いと思っている。
自分の土地に侵入した者には、『銃を向けて自分の所有物を守る権利』があり、わざわざ警察なんて「国家」のものに頼る事が正義だなんて思わない。
体を使った労働こそが尊いものであり、オフィスワーク・口先八寸の営業職等は「仕事」に入らない。
ほぼ化石と化したような人物達。そんな「頑固オヤジ」に何人か出会った事がある。
この頑固オヤジの共通項は、「建国の父以来脈々と続いたアメリカを滅茶苦茶にしている、柔なリベラル社会主義者は、胸糞ワルイ。」というもので、ましてや、「リベラル気取りの外国人がアメリカにやってきてアメリカの悪口言うのは許せない。」という態度。
なので、私みたいなのは、「女じゃなきゃ殴るぞ!」ってなもんだが、私にはどうもそんなオヤジ達を憎みきれない。
それは、なんだろうと考えてみると、彼らなりの「哲学」ではないかと私は思う。
クリント・イーストウッド演ずるウォルトが「人種偏見者」で、ベトナム移民2世の少年との交流を通じて変わって行く…、という筋書きを何度か目にしたけれど、彼は「人種偏見者」とは違うと私は思う。
人種差別用語は使うし、異質な物に対する非許容度は高いけれど、異文化・異人種の間に「アメリカ的」なものを見つけた時、受け入れる用意は充分にあるのだ。
「アメリカ」という素朴な国家の哲学を受け入れられる者を、同胞として受け入れる。そうでなけりゃ、自分の息子だって「排除」の対象である。
ベトナム移民の少年の謙虚さ、直向さ、労働を厭わない姿勢は、ウォルトにとって、外国車の営業マンである息子よりも「アメリカ的」と映った。
「偏見の心を解いた」というよりも、「彼が共鳴できるアメリカ精神を、ベトナム移民家族の中に見つけ、受け入れた。」と言った方が良いような気がするのだ。
私の出会った頑固オヤジ達にも、そういうところがあった。他者に対する許容度は恐ろしく低いが、「共鳴」できる部分に触れると、性別とか年齢とか人種なんて関係なく、驚く程の懐の深さを見せるのだ。
そいうところって、極めてアメリカ的で、愛すべき頑固オヤジだと思う。
ちなみに、もう一つ、こういう頑固オヤジに共通しているのは、(若い)女の子には弱いという所。(実際私は決して若くなくオヤジ達が勘違いしただけなのでカッコに入れ)
映画の中でも、イーストウッド扮するウォルトが少年家族と関わるようになるのは、「女の子」がきっかけである。
「女には優しく」の精神があるので、ダンディに振舞わずにはいられない。
「アジア人の女はもっと謙虚かと思ったがアメリカ女に毒されている」なんぞと毒つかれた事もあったが、それでもやっぱり「ダンディ」であろうとするのである。
映画の中のウォルトの振る舞いを見つつ、愛すべき頑固親父達との語らいを思い出したのであった。
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